2015年09月06日

林子平 黒船の前から「海防」を説いた仙台藩の先覚者

江戸の日本橋より唐(から)、阿蘭陀(オランダ)まで境なしの水路なり-。江戸時代後期、仙台藩ゆかりの思想家、林子平(はやし・しへい)(1738~93年)が著した「海国兵談」の有名な一節だ。四方を海に囲まれた海国の日本では、海辺の防備が急務であると、海防の必要性を説いた林子平。仙台市青葉区のJR仙山線東北福祉大前駅から徒歩で10分ほどのところに「子平町」がある。

 もとは子平の名前はついていなかったが、昭和42年の住居表示による町名変更の際に、地元の龍雲院に墓のある林子平にちなんで子平町となった。

 子平の墓は鞘(さや)堂に覆われ、そばには明治政府の要職にあった伊藤博文が建立した石碑がある。平重道著「林子平その人と思想」(昭和52年、宝文堂)によると、伊藤博文は明治12年に奥羽(東北)を巡視し、仙台の子平の墓を訪れたが、その頃の墓はあまりに荒廃していた。子平を慕っていた博文はその様を嘆き、子平の偉業を後世に残そうと碑の寄進を決めたという。墓は昭和17年に国の史跡に指定された。

 仙台市史などによると、子平は元文3(1738)年に江戸で生まれた。姉が仙台藩の6代藩主、伊達宗村の側室となったことが縁となり、兄が仙台藩士に取り立てられた。子平は兄の世話になる無禄厄介(やっかい)という待遇で、比較的自由に行動できたことから、長崎に3度赴き、オランダ商館長らから海外の情報などを入手した。

 こうして得た知識をもとに、ロシアの南下を警戒して、蝦夷地の確保を説いた「三国通覧図説」を天明6(1786)年、「海国兵談」を寛政3(1791)年に刊行。しかし、翌年、幕府はいたずらに人心を惑わすものとして、子平に仙台藩での蟄居(ちっきょ)を命じた。版木没収、発禁の処分を受けた子平は「親もなし、妻なし、子なし、はん(版)木なし、かねもなければ、死にたくもなし」と述べ、「六無斎(ろくむさい)」を名乗った。同5(1793)年に56歳で没した。

 子平の没後、異国船が相次いで渡来し、開国と通商を求めるなど子平の考えが現実のものとなり、その正しさが証明されることになった。子平は、蒲生君平、高山彦九郎とともに「寛政の三奇人」と呼ばれる。

 子平は龍雲院に葬られたが、罪人のため、墓を建てることが許されなかった。死後48年たった天保12(1841)年に幕府から赦免され、翌年、おいの林珍平が墓を建立した。

 龍雲院では毎年7月20日に子平を供養する「林子平祭」が開催されている。もとは子平の命日の6月21日に実施してきたが、その後、海防の必要性を唱えたことなどから、「海の記念日」や「海の日」の7月20日に開催。海の日が7月の第3月曜日に変わっても7月20日で通し、海上戦死・病没・遭難者なども供養。墓の隣にある六角堂内の子平の木像を開帳する。門前には屋台が出店し、演芸奉納もある。

 龍雲院の近くには「子平堂」という和菓子店があり、「子平まんじゅう」が看板商品となっている。昭和12年創業の老舗で、町名が子平町に変更となる30年前から、「子平」の名を冠してきた。

 「龍雲院の当時の住職と先代の店主が懇意にしており、『地元に名物をつくってほしい』と、住職から子平先生の名をいただいたということです」。こう説明するのは、子平堂の店主、村上瀧雄(たきお)さん(77)だ。

 村上さんは祭りを運営する林子平先生祭典委員も務めている。かつて祭りといえば、地元の子供の楽しみだった。少子化の時代となり、祭りに来る子供も少なくなってきたが、「祭りを通して地元にゆかりの林子平先生に関心を持ってほしい」と村上さんは話す。

 仙台藩主・伊達氏の居城だった仙台城。同市青葉区の仙台城三の丸跡にある仙台市博物館では、林子平肖像画や「海国兵談」(寛政3年、原刻本)、「三国通覧図説」(仏語訳、1832年刊)などを所蔵する。

 同博物館のホームページには、子供向けに「キッズコーナー」が設けられ、仙台藩祖・伊達政宗や慶長遣欧使節の支倉(はせくら)常長らとともに林子平を紹介している。

 同博物館学芸員の佐々木徹さん(41)は「江戸時代、海外との情報や物資の流通の窓口は長崎の出島などに限られていた。そうした中で子平は長崎に足を運び、積極的に海外の情報を取り入れた。国際情勢を認識することが、日本の行く末を左右するという考えがあったと思う。広い視野でものを考え、問題提起した人物が仙台藩にいたことを知ってほしい」と話す。

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Posted by evasann11 at 12:16